あれからずっと、俺はファルさんに言われた言葉を、頭の中で繰り返し繰り返し、思
い起こしていた。
 言葉に力など、あるのだろうか? 仮に存在したとして、その力は、その存在を証明
できるだろうか? 例えば、俺が変わることによって。
 コーデル先生は、昨日と変わらず、口数が少なかった。レッスンを終えた後に紅茶を
飲む習慣は変わらず、二人で見せかけだけは穏やかな時間を過ごした。だが、どこか寒
々しい、隔たりのようなものを常に感じていた。
 コーデル先生は、マリア先輩のことを考えていただろうし、俺も俺で、自分のことば
かり考えていたせいだった。

 思考をそれきりうち切って、鍵を預けるために守衛室へと向かう。

「あら、もう終わりなの? 今日は早いのね」

 第一校舎を出てすぐ、意外な人物に声をかけられる。

「マリアさん、今日もいらしてたんですか」
「ええ。これからレッスン室に向かおうと思ってたんだけど……」

 俺が手に持った鍵を見て、かつて同じ助講師をしていた彼女はピンときたみたいだっ
た。確かに今日は、受け持つ生徒の数も少なく、昨日に比べると二時間以上も終わるの
が早かった。

「もうコーデル先生も帰ってしまいましたしね」
「……そうなの」
「明日は最後までレッスンが入ってますから、このくらいの時間でも大丈夫ですよ」

 そう伝えたのだが、マリアさんは残念、というか浮かない顔をしたままだ。

「なにか、事情でも? 先生に今日中に会わないといけないとか」
「ううん、そうではないのよ。ちょっと、フォルテールでも久しぶりに弾きたくなって……」
「なんだ、そんなことですか。それなら、ちょうど鍵ももっていますし、今から行きますか」

 マリアさんの顔がぱっと明るくなり、上目遣いで伺うように尋ねる。

「いいの?」
「……提案したのはこちらですし、もちろんかまいませんよ」
「ありがとう」

 顔を崩し、心からの笑みを浮かべた。たかがこれだけのことで、とも思ったが、礼を
言われて困ることもなかったので、肩をすくめるだけにした。

 レッスン室に置きっぱなしにしてある、俺のフォルテールを貸そうと組み立てている
と、後ろからのぞき込むようにしていたマリアさんが話しかける。

「今はレッスン室にわざわざ備え付けのフォルテールがあるの?」
「いえ。これは一応俺の私物ってことになりますね」
「へえ、家では練習しないんだ」

 フォルテールを二台もっているのは、さすがに珍しい部類か。なにも期待されてない
貴族の次男坊に与えるには、ちょうど良いおもちゃだったってだけだろうが。

「部屋にもう一つありますけど……あまりしませんね」
「フォルテール、嫌いなの?」
「……さあ、どうでしょう? はい、用意はできました。どうぞ」

 話を中断するように、椅子を引き、マリアさんを座らせた。

「ありがとう」

 鍵盤に優しく触れ、ゆっくりと押し込むと、優しい色が流れる。たったそれだけで、
なにが楽しいのか彼女はくすっと笑った。

「そういえば……久しぶりってことは、あまりフォルテールを弾いてないってことですよね」
「ええ。もう十年はさわってないかしら」

 何度か和音をかき鳴らしているのを横で見ながら、遠慮がちに尋ねてみる。

「フォルテール科を卒業した後……今は、なにをしてるんですか?」
「今は……好きなことをしてるだけかな」
「好きなこと?」
「いろんな場所に行って、いろんな人と会って」
「へえ、それはすてきですね」
「でも、周りの人の厚意に甘えてばかりで……」
「甘えさせてくれるのは、みんなあなたのことが好きだからですよ。だからあなたが喜
ぶと、その人も嬉しくなる……良いんじゃないですか? それで」
「すてきな解釈ね」

 言いながら振り返り、マリアさんは俺の目をじっと見つめた。

「じゃあ、この厚意も?」
「そんなところです」
「ありがとう」

 軽やかにそう返事すると、マリアさんはフォルテールを弾き始めた。

 イメージが、すっと入り込んでくる。優しい音が頬を流れ――服を浸透して――肌に
直接触れたような気がした。

 と思ったのもつかの間、不協和音が耳につき、現実に引き戻された。
 マリアさんはかまわず弾き続けるが、それに彼女自身の笑い声が重なる。時々リズム
も狂っていて、それを強引に戻そうとするからまた崩れる……そんな繰り返しで、曲と
してはほとんど成立していなかった。
 それなのに、なぜか彼女のフォルテールを聴いていると、楽しくてこちらまで笑って
しまいそうになる。

「ふう……やっぱり駄目ね、楽器は毎日さわってないと」

 なんとか一曲弾き終えて、最初の一言がそれだった。でも、決して悔しそうではなく、
すがすがしくそう言われたのだから、俺もそうですね、と答えるしかなかった。

「なにか、楽譜ないかな?」
「エチュードでよければ、教本がそこら中に転がってますよ」
「できれば、聴いたことのない曲の方がいいわ。そのほうが楽しいから」

 正直なところ、練習からしたほうが良いんじゃないかと思うレベルだったが、確かに
練習曲は、あまり楽しくない。

「じゃ、こんなのはどうですか?」

 鞄から、楽譜の束を取り出して彼女に渡す。今、コーデル先生と俺の受けもちの生徒
達が練習している楽譜の束だ。オリジナル曲の作成が課題に出たばかりで、大半はおそ
まつなものだったが、ここにあるのは全て新曲ということになる。

「これは、生徒が書いた曲?」

 一枚を手に取り、ざっと見ただけでマリアさんはそう言った。汚い字で書かれた楽譜
に、ぴんとくるものがあったんだろう。

「絶対に聴いたことがない曲でしょう?」
「それもそうね」

 どの曲にしようかと迷いながら、ようやく彼女は一組の楽譜を選び出した。

「これだけ、少し違うみたいね」
「さすが、お目が高いですね」

 すぐにそれが、ファルさんが写譜したものだとわかった。見た目から人目を引くのも
あるが、楽曲そのものも、プロのと遜色がない。その楽譜の署名には、リセルシア・チ
ェザリーニとある。

「じゃ、次はこれにしてみるわ」
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